原発に依存しない地域、コミュニティとは
2013/09/18(Wed) 16:41 | コラム | 8
高濃度汚染水漏出問題と日本政府の責任
◆東京電力は、8月20日になって、福島第第一原発の汚染水著貯蔵タンクから放射能汚染水推定300トンが漏れ出ていたことを一転して認める発表をした。今回も発表が遅れ、事故隠しとの批判がなされている。東電の隠蔽体質は相変わらずと言わざるを得ないが、事はそれにとどまらず深刻である。
汚染水漏出事故は発表されているだけで5回目である。しかし、未だに漏水の原因を把握できていない。のみならず漏水の規模が果たしてどのくらいであるのかも正確にはわかっていない。要するに東電側は、事態を何も把握していないし管理もできていないのである。そのことについて東電は危機感も責任も感じていないというのが信じたくないが現実である。
◆原子炉を冷却した後の高濃度のストロンチウムを含んだ汚染水に地下水が流れ込み、日々新たに400トンの汚染水が生まれている。完全な浄化装置がないために、タンクに貯めておくしかない。そのタンクの数が足りずに、急増したタンク(溶接しないボルト締めのタンク)から今回の漏出事故が起きている。この急増タンクに貯められている汚染水は8月23日現在で約22万トン余り、タンクには計測メーターがとりつけられていないので、汚染水が漏れていてもわからない。作業員が、タンク回りを目視で確認する以外に汚染水漏れをチェックできていいなかったという報道には、心底驚き、絶望的な気分にすらなる。
◆漏れた汚染水の回りの空間線量は毎時100ミリシーベルトという直ちに人命に危害を与えうる数値である。海洋汚染や地下水汚染の危険は収束の目途もたたず拡大一方の状況である。再び大地震や津波が来たときに総量33万トンと言われる高濃度放射能汚染水はどうなるのか。日々溜まっていく高濃度汚染水の当面の処理方策も決まっていないのだから、廃炉へ向けた計画など立てようがなかろう。
◆原子力規制庁は、今回の事故を当初レベル1としたが、IAEAの勧告を受けて、8月28日にレベル3(重大な異常事象)に訂正した。世界中がこの緊急事態に注目し連日トップニュースで報道しているというが、日本の中ではいたって「静」である。このギャップはいったい何なのか。
◆日本政府は、直ちに総力を挙げてこの重大な異常事象に対応すべきである。原発輸出の売り込みや、原発再稼働に血道を上げている場合ではない。東電をこれ以上好き勝手に野放しにすべきではない。直ちに東電を公正な第三者機関の管理下に置き、緊急に日本のみならず世界中の科学者の協力を得て高濃度汚染水の流出にストップをかける施策を講じなければならないし、同時に廃炉に向けた具体的なステップを明確にしなければならない。さらに東電の資産は、まず原発事故によるすべての被害者の救済に当てられるべきで、そのために強制力を持った資産分与の法的手続きがとられなければならない。これらの緊急事態に対応するために、憲法「改正」はもちろん不要である。規制庁の権限を強化し、破産法や会社更生法その他既存の法律を駆使することで十分に適切迅速な対応が可能である。
汚染水漏出事故は発表されているだけで5回目である。しかし、未だに漏水の原因を把握できていない。のみならず漏水の規模が果たしてどのくらいであるのかも正確にはわかっていない。要するに東電側は、事態を何も把握していないし管理もできていないのである。そのことについて東電は危機感も責任も感じていないというのが信じたくないが現実である。
◆原子炉を冷却した後の高濃度のストロンチウムを含んだ汚染水に地下水が流れ込み、日々新たに400トンの汚染水が生まれている。完全な浄化装置がないために、タンクに貯めておくしかない。そのタンクの数が足りずに、急増したタンク(溶接しないボルト締めのタンク)から今回の漏出事故が起きている。この急増タンクに貯められている汚染水は8月23日現在で約22万トン余り、タンクには計測メーターがとりつけられていないので、汚染水が漏れていてもわからない。作業員が、タンク回りを目視で確認する以外に汚染水漏れをチェックできていいなかったという報道には、心底驚き、絶望的な気分にすらなる。
◆漏れた汚染水の回りの空間線量は毎時100ミリシーベルトという直ちに人命に危害を与えうる数値である。海洋汚染や地下水汚染の危険は収束の目途もたたず拡大一方の状況である。再び大地震や津波が来たときに総量33万トンと言われる高濃度放射能汚染水はどうなるのか。日々溜まっていく高濃度汚染水の当面の処理方策も決まっていないのだから、廃炉へ向けた計画など立てようがなかろう。
◆原子力規制庁は、今回の事故を当初レベル1としたが、IAEAの勧告を受けて、8月28日にレベル3(重大な異常事象)に訂正した。世界中がこの緊急事態に注目し連日トップニュースで報道しているというが、日本の中ではいたって「静」である。このギャップはいったい何なのか。
◆日本政府は、直ちに総力を挙げてこの重大な異常事象に対応すべきである。原発輸出の売り込みや、原発再稼働に血道を上げている場合ではない。東電をこれ以上好き勝手に野放しにすべきではない。直ちに東電を公正な第三者機関の管理下に置き、緊急に日本のみならず世界中の科学者の協力を得て高濃度汚染水の流出にストップをかける施策を講じなければならないし、同時に廃炉に向けた具体的なステップを明確にしなければならない。さらに東電の資産は、まず原発事故によるすべての被害者の救済に当てられるべきで、そのために強制力を持った資産分与の法的手続きがとられなければならない。これらの緊急事態に対応するために、憲法「改正」はもちろん不要である。規制庁の権限を強化し、破産法や会社更生法その他既存の法律を駆使することで十分に適切迅速な対応が可能である。
大江京子(日本民主法律家協会)
2013/09/06(Fri) 16:34 | コラム | 7
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++ Edited by TRANSFORM ++
このような被害の類型の一つとして、しばしばコミュニティの破壊ということがあげられる。確かにそれは、こうした事態の典型だといえるだろう。実際に、この原発の事故によって、もといた居住地から、半ばディアスポラの状態に置かれたかのように、各地へと散らばって避難を余儀なくされた、多くの人びとの存在がそのことを物語っている。
事故の結果、住む家を奪われたうえに、生活していた地域をも回復が困難なほどに破壊された人びとがそこにはいる。こうしたコミュニティの破壊に起因する損害をどのように考えるべきなのだろうか。それは計測可能なものなのであろうか。金銭で補償することができるのだろうか。賠償といっても、なかなかそうのような形での議論は、なじまないものかもしれない。そもそも、生活の場である地域というものは、失ったという実感を持つことが難しいほどに、当たり前にそこにあったものではなかったのだろうか。
こうした状況を考えるのに際して、もしかしたら、日本社会の各地に点在している多くの地域がヒントになるのかもしれない。現在の日本において、少なくない地域が荒廃しているのではないだろうか。そのような地域の実情、とりわけ中山間地におけるそれが、何らかの示唆をもたらしてくれるのではないだろうか。
数多くの中山間にある地域が、目下、疲弊しつつある。このことは否定のしようがないほどの事実ではないだろうか。それも、新自由主義的な市場原理主義が席巻し始めて以降、この傾向が加速されてきたように感じる。すでに、原発事故が起きる以前から、日本の多くの地域では、コミュニティの崩壊が現実味を帯びるほどに、危機的な状況にあったのではないのだろうか。限界集落といった言葉に象徴されるように、地域はもはや回復することが困難なほどのダメージを、すでに被っていたのではないだろうか。
そのような地域の実情を知るにつけ、原発事故で破壊された福島の多くの地域との、驚くほどの類似に気が付かざるをえないだろう。とりわけ、ダムなどの公共事業の予定地とされた地域と共通するところが少なくはないように思える。そもそも、ダムの建設の対象とされた場所は、条件のあまり良好ではない中山間地などに誘致される傾向があり、その点で、原発の立地にも、そのような事情が少なからずあったのは、否定できないだろう。
大規模な公共事業の候補地とされた地域は、その結果、強引に建設を推し進めることが多いために、人間関係をも破壊されてしまうこともまれではなかった。まさに、コミュニティへの回復不能なまでのダメージを与えることとなる。ダムも、原発も、これまでそうしたケースが、ときに悲劇的な結末をともなって、数多く展開されてきた。
ダム建設地でも、それが完成したのちも、多くの課題を残し、ときに、修復困難な影響を与えることが珍しくはない。また、そのような公共事業の対象とはならなかったものの、同様の問題を抱えている地域コミュニティも、少なくはないであろう。もはや地域の疲弊は、日本中の多くの場所で、どこにでもある現象といっても過言ではないだろう。
では、こうした状況を変えていくための展望は、どこにあるのだろうか。ここにこそ、原発に依存しないコミュニティの在り方を考える、その方途があるのではないだろうか。大量に電力を消費するような大規模開発とは、一線を画した、持続的な地域の在り方を考える必要がそこにあるように思える。大量生産、大量消費を前提とする生活スタイルではなく、もっと足元を見据えた生活様式が求められているのではないだろうか。
このような課題を中山間地の実情を通して考えることによって、地域コミュニティに根差した持続的なあり方のヒントが得られるのではないだろうか。それは、原発に依存しない地域であり、人間関係も壊されることのない、当たり前のようにそこにある、ふつうの日々の暮らしを大切にしていく姿勢ではないだろうか。今、原発事故を経験した日本社会に、こうした問題が重く、深くのしかかっているのだといえるだろう。