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安全神話の呪縛

 福島第1原子力発電所の現状は、止められない汚染水の漏出、小動物の侵入による冷却システムの電源切断、依然として高い数値を示している周辺の放射線量、格納容器の温度上昇によるとみられる水蒸気の発生等々、トラブルが後を絶たず、廃炉に至るまでの道筋が見えない状態が続いている。
 3.11直後の原発事故そのものだけでなく、こうした事故後も続くトラブルの続出は、人為によるコントロールが効かない原発の危険性を如実に示しており、安全神話が完全に誤りであって、崩壊するに至っていることを、厳然たる事実をもって証明していると言わなければならない。
 安倍政権が発足して以来、「アベノミクス」、消費税増税と一方での法人税減税、TPP参加の推進、解雇規制の緩和、憲法改正、普天間基地の辺野古移転など逆戻りの政策が進められようとしているが、その中の重要政策の1つに原発輸出の推進と国内での原発再稼働のもくろみも含まれている。
 このような執拗なまでの原発へのしがみつきは、「原子力村」と言われる財界、政府、官僚、そして原発を推進してきた一部の学者・技術者の一団の利害関係がその原動力をなしていることは言うまでもないが、彼らが今もなお安全神話を唱導し、あるいは国民を説得するために安全神話に依然として依拠できると判断していることを物語っている。既に安全神話が完全に崩壊し、社会全体がそのような観念に囚われなくなっているとすれば、彼らがこの神話に依拠できると判断することは不可能となる筈であり、彼らがまだこの神話を利用できると判断していることからすれば、社会はまだまだこの安全神話の呪縛から脱却できていないと言わなければならない。
 実はこの安全神話の呪縛は、歴史的にみて大変根深いものがあり、いわゆる革新的な陣営に属する人々ですらもその多くは、安全神話に囚われていたことは否定できない。
 この点を振り返ってみるために、昭和30年代前半に各分野にわたる当時のわが国における先進的な学者、評論家、ジャーナリストの論考を集めた『岩波講座 現代思想』を例にとってみると、次のような論調を垣間見ることができる。
 「現代の資本主義の中心であるアメリカにおいては巨大な原子力エネルギイを平和の生産力として利用する方向がはばまれ、もっぱらこれを軍事的に利用する方向がとられているのである。」(羽仁五郎「現代における戦争の性格」(『岩波講座 現代思想 Ⅸ 戦争と平和』S32.5.25所収・41頁) 原子力を「平和の生産力」として利用するのは良いという前提で、これに対比して原子力を「軍事的に利用する方向」には反対であるという思考方法がとられている。
 さらにより鮮明に、原子力の軍事的な利用は人類に破滅的な影響をもたらす一方、平和的な利用の場合には安全に管理していく技術やシステムも確立されていくだろうという楽観的な見通しを述べたものもある。やや長くなるがゾルゲ事件に連座して一時朝日新聞を退社したことがあり、『原子力の国際管理』などの著書でも知られるジャーナリストの田中慎次郎の文章を引用してみる。
 「軍事・非軍事にわたる多様な利用面のうち、原水爆がもたらした影響はきわめて深刻で、これにくらべれば、非軍事的利用の影響は、おだやかなものである。人間がうまく原子力をこなして行けば、人類社会の幸福に貢献することができる。・・・原子力の場合は、もしこれが原子兵器として、戦場で実際に使用されるようなことがあれば、文字通り、文明の破滅になるし、逆にもし、原子力が平和的にのみ利用されるならば、原則的にいって、それが人類社会の幸福に貢献することができるという、いわば両極端を包蔵している。」(田中慎次郎「原子力時代における人間」(『岩波講座 現代思想 Ⅷ 機械時代』S32.3.25所収・232頁) 「しかしながら、原子力をつかっての平和的利用の場合には、原子炉の数と出力とが増加するにともなって、灰の安全な処理方法の技術も確立されていくだろうし、灰の処理方法についての、国際的な取締り規則も完備されてくるであろうが、どうにも始末のつかないのは、原子力爆弾や水素爆弾を爆発させたときに、大気中にまき散らされ、やがては地上に落下してくる、いわゆる死の灰である。」(同上・245頁)
 これらの議論は決して原子力産業の利益をはかろうなどという意図は毛頭なく、善意で述べられたものであることは言うまでもない。しかし原子力の軍事利用に対抗してその平和利用を図ろうとする発想が、当時、核兵器に強力に反対する人々の間で共有されていたことは認めざるを得ない。その発想の基礎に、軍事的な利用の場合には歯止めが効かなくなるが、平和的な利用の場合にはコントロールが可能であるという、何とはなしの認識が横たわっていたことは否定できない。これこそ安全神話以外の何ものでもないのである。
 このように我々の先達すら安全神話の呪縛にとらわれていたことを、十分に自戒しなければならないと思う。
 原発事故を教訓にすることなく、原発の輸出と原発の再稼働を推進しようとする動きが目前で起きている今こそ、安全神話の呪縛からの真の脱却と、そのための世論への周到なはたらきかけが求められている時である。
(2013.8.2)
大熊政一(日本国際法律家協会)
2013/08/18(Sun) 16:17  |   コラム  |   4

「地獄の業火」による火遊びを止めよう

 核エネルギーは、「神の火」とも「地獄の業火」ともいわれる。核エネルギーの巨大さと制御困難性を問わず語りしているといえよう。核分裂反応が、いかに巨大なエネルギーを放出するかは、理論的にも実践的にも明らかである。兵器として使用された核エネルギーが人類社会に何をもたらしたか。私たちは、広島・長崎の「被爆の実相」の中に確認することができる。巨大な湯沸し装置として使用された核エネルギーが暴走した時の実情も、現在進行形で体験している。私たちは、閻魔大王によって、翻弄されているのであろうか。
 核エネルギーを兵器として使用しようとする勢力も、湯沸し装置として利用したいとする勢力も、厳然とした力を保持し続けている。力による支配と利潤追求の衝動が、彼らの思考と行動を規定しているのである。いかに多くの人々が殺され、傷つき、苦しもうとも、彼らの関心の対象とはならない。核エネルギーは、神でも悪魔でもない、人間界の支配者によって、道具として利用されているのである。
 兵器としての核エネルギーへの対抗は核兵器廃絶運動としてあらわれている。民生利用としての核エネルギーへの対抗は原発反対運動としてあらわれている。
 核エネルギーは巨大であり、制御困難であるがゆえに、その保有者は、軍事的にも、政治的にも、経済的にも、社会的にも優位に立てることになる。神にも閻魔大王にもなれるのだ。
 兵器としての核エネルギーの利用は非人道的であるだけではなく、国際人道法に反するとされつつある。民生用の核エネルギー利用は、危険で、高価で、反環境的で、反倫理的であるとされつつある。
 にもかかわらず、核兵器に依存して国家の安全を確保しようとする勢力は、経済成長戦略の一環として原発を輸出しようとしている。その勢力に正統性を付与しているのは、有権者の投票行動である。多数決原理による正統性は、人間と自然や社会との関係で、常に正当であるとは限らない。この国では、多数決原理による正統性が「地獄の業火」による火遊びを継続させているのである。
 核兵器と原発は、核エネルギーであるということで共通している。国家安全保障のために「最終兵器」に依存することは、正義や公正よりも暴力に依拠する発想である。電気エネルギーの確保のための方法はいくらでもあるし、節約の方法もある。
 「地獄の業火」による火遊びを止めるために、私たちには、原理的な正当性の主張だけではなく、政治的正統性の確立も求められているといえよう。
(2013.7.26記)
大久保賢一(日本反核法律家協会事務局長)
2013/08/02(Fri) 15:59  |   コラム  |   3