安全神話の呪縛
2013/08/18(Sun) 16:17 | コラム | 4
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3.11直後の原発事故そのものだけでなく、こうした事故後も続くトラブルの続出は、人為によるコントロールが効かない原発の危険性を如実に示しており、安全神話が完全に誤りであって、崩壊するに至っていることを、厳然たる事実をもって証明していると言わなければならない。
安倍政権が発足して以来、「アベノミクス」、消費税増税と一方での法人税減税、TPP参加の推進、解雇規制の緩和、憲法改正、普天間基地の辺野古移転など逆戻りの政策が進められようとしているが、その中の重要政策の1つに原発輸出の推進と国内での原発再稼働のもくろみも含まれている。
このような執拗なまでの原発へのしがみつきは、「原子力村」と言われる財界、政府、官僚、そして原発を推進してきた一部の学者・技術者の一団の利害関係がその原動力をなしていることは言うまでもないが、彼らが今もなお安全神話を唱導し、あるいは国民を説得するために安全神話に依然として依拠できると判断していることを物語っている。既に安全神話が完全に崩壊し、社会全体がそのような観念に囚われなくなっているとすれば、彼らがこの神話に依拠できると判断することは不可能となる筈であり、彼らがまだこの神話を利用できると判断していることからすれば、社会はまだまだこの安全神話の呪縛から脱却できていないと言わなければならない。
実はこの安全神話の呪縛は、歴史的にみて大変根深いものがあり、いわゆる革新的な陣営に属する人々ですらもその多くは、安全神話に囚われていたことは否定できない。
この点を振り返ってみるために、昭和30年代前半に各分野にわたる当時のわが国における先進的な学者、評論家、ジャーナリストの論考を集めた『岩波講座 現代思想』を例にとってみると、次のような論調を垣間見ることができる。
「現代の資本主義の中心であるアメリカにおいては巨大な原子力エネルギイを平和の生産力として利用する方向がはばまれ、もっぱらこれを軍事的に利用する方向がとられているのである。」(羽仁五郎「現代における戦争の性格」(『岩波講座 現代思想 Ⅸ 戦争と平和』S32.5.25所収・41頁) 原子力を「平和の生産力」として利用するのは良いという前提で、これに対比して原子力を「軍事的に利用する方向」には反対であるという思考方法がとられている。
さらにより鮮明に、原子力の軍事的な利用は人類に破滅的な影響をもたらす一方、平和的な利用の場合には安全に管理していく技術やシステムも確立されていくだろうという楽観的な見通しを述べたものもある。やや長くなるがゾルゲ事件に連座して一時朝日新聞を退社したことがあり、『原子力の国際管理』などの著書でも知られるジャーナリストの田中慎次郎の文章を引用してみる。
「軍事・非軍事にわたる多様な利用面のうち、原水爆がもたらした影響はきわめて深刻で、これにくらべれば、非軍事的利用の影響は、おだやかなものである。人間がうまく原子力をこなして行けば、人類社会の幸福に貢献することができる。・・・原子力の場合は、もしこれが原子兵器として、戦場で実際に使用されるようなことがあれば、文字通り、文明の破滅になるし、逆にもし、原子力が平和的にのみ利用されるならば、原則的にいって、それが人類社会の幸福に貢献することができるという、いわば両極端を包蔵している。」(田中慎次郎「原子力時代における人間」(『岩波講座 現代思想 Ⅷ 機械時代』S32.3.25所収・232頁) 「しかしながら、原子力をつかっての平和的利用の場合には、原子炉の数と出力とが増加するにともなって、灰の安全な処理方法の技術も確立されていくだろうし、灰の処理方法についての、国際的な取締り規則も完備されてくるであろうが、どうにも始末のつかないのは、原子力爆弾や水素爆弾を爆発させたときに、大気中にまき散らされ、やがては地上に落下してくる、いわゆる死の灰である。」(同上・245頁)
これらの議論は決して原子力産業の利益をはかろうなどという意図は毛頭なく、善意で述べられたものであることは言うまでもない。しかし原子力の軍事利用に対抗してその平和利用を図ろうとする発想が、当時、核兵器に強力に反対する人々の間で共有されていたことは認めざるを得ない。その発想の基礎に、軍事的な利用の場合には歯止めが効かなくなるが、平和的な利用の場合にはコントロールが可能であるという、何とはなしの認識が横たわっていたことは否定できない。これこそ安全神話以外の何ものでもないのである。
このように我々の先達すら安全神話の呪縛にとらわれていたことを、十分に自戒しなければならないと思う。
原発事故を教訓にすることなく、原発の輸出と原発の再稼働を推進しようとする動きが目前で起きている今こそ、安全神話の呪縛からの真の脱却と、そのための世論への周到なはたらきかけが求められている時である。
大熊政一(日本国際法律家協会)