東電福島原発事故の被害の実態と、原因・責任を解明し、人権の回復と、脱原発社会を目指す、法律家・科学者・ジャーナリストのネットワークです
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このような被害の類型の一つとして、しばしばコミュニティの破壊ということがあげられる。確かにそれは、こうした事態の典型だといえるだろう。実際に、この原発の事故によって、もといた居住地から、半ばディアスポラの状態に置かれたかのように、各地へと散らばって避難を余儀なくされた、多くの人びとの存在がそのことを物語っている。
事故の結果、住む家を奪われたうえに、生活していた地域をも回復が困難なほどに破壊された人びとがそこにはいる。こうしたコミュニティの破壊に起因する損害をどのように考えるべきなのだろうか。それは計測可能なものなのであろうか。金銭で補償することができるのだろうか。賠償といっても、なかなかそうのような形での議論は、なじまないものかもしれない。そもそも、生活の場である地域というものは、失ったという実感を持つことが難しいほどに、当たり前にそこにあったものではなかったのだろうか。
こうした状況を考えるのに際して、もしかしたら、日本社会の各地に点在している多くの地域がヒントになるのかもしれない。現在の日本において、少なくない地域が荒廃しているのではないだろうか。そのような地域の実情、とりわけ中山間地におけるそれが、何らかの示唆をもたらしてくれるのではないだろうか。
数多くの中山間にある地域が、目下、疲弊しつつある。このことは否定のしようがないほどの事実ではないだろうか。それも、新自由主義的な市場原理主義が席巻し始めて以降、この傾向が加速されてきたように感じる。すでに、原発事故が起きる以前から、日本の多くの地域では、コミュニティの崩壊が現実味を帯びるほどに、危機的な状況にあったのではないのだろうか。限界集落といった言葉に象徴されるように、地域はもはや回復することが困難なほどのダメージを、すでに被っていたのではないだろうか。
そのような地域の実情を知るにつけ、原発事故で破壊された福島の多くの地域との、驚くほどの類似に気が付かざるをえないだろう。とりわけ、ダムなどの公共事業の予定地とされた地域と共通するところが少なくはないように思える。そもそも、ダムの建設の対象とされた場所は、条件のあまり良好ではない中山間地などに誘致される傾向があり、その点で、原発の立地にも、そのような事情が少なからずあったのは、否定できないだろう。
大規模な公共事業の候補地とされた地域は、その結果、強引に建設を推し進めることが多いために、人間関係をも破壊されてしまうこともまれではなかった。まさに、コミュニティへの回復不能なまでのダメージを与えることとなる。ダムも、原発も、これまでそうしたケースが、ときに悲劇的な結末をともなって、数多く展開されてきた。
ダム建設地でも、それが完成したのちも、多くの課題を残し、ときに、修復困難な影響を与えることが珍しくはない。また、そのような公共事業の対象とはならなかったものの、同様の問題を抱えている地域コミュニティも、少なくはないであろう。もはや地域の疲弊は、日本中の多くの場所で、どこにでもある現象といっても過言ではないだろう。
では、こうした状況を変えていくための展望は、どこにあるのだろうか。ここにこそ、原発に依存しないコミュニティの在り方を考える、その方途があるのではないだろうか。大量に電力を消費するような大規模開発とは、一線を画した、持続的な地域の在り方を考える必要がそこにあるように思える。大量生産、大量消費を前提とする生活スタイルではなく、もっと足元を見据えた生活様式が求められているのではないだろうか。
このような課題を中山間地の実情を通して考えることによって、地域コミュニティに根差した持続的なあり方のヒントが得られるのではないだろうか。それは、原発に依存しない地域であり、人間関係も壊されることのない、当たり前のようにそこにある、ふつうの日々の暮らしを大切にしていく姿勢ではないだろうか。今、原発事故を経験した日本社会に、こうした問題が重く、深くのしかかっているのだといえるだろう。