「人類は核と共存できない 核兵器も原発もない世界を求めるための一視座」
「人類は核と共存できない 核兵器も原発もない世界を求めるための一視座」
2014/08/22(Fri) 11:41 | コラム | 20
「復興支援」の課題
「復興支援」の課題
2011年3月11日から、それに続く福島第一原発の事故の発生、あれから、間もなく3年の月日が経過しようとしている。原発サイトや原子炉も、一応は、安定した状態を維持しているように、表面上は見受けられる。だが、事故の収束というには、まだまだ、本当に程遠いというのが、実情ではないだろうか。原発サイトの状況ですら、かろうじて一定の状態を保っているにすぎず、いつまたそれが変化し、再び危機的な事態へといたるのかは、予断が許さないところではないだろうか。また、避難を余儀なくされた人びとや、さまざまな形で被害をこうむった人たちへの賠償と失われた権利の回復への過程は、ようやく手が付けられ始めたばかりということができるのではないだろうか。
とりわけ、原発災害によって多大なダメージを受けた多くの人びとが置かれている状況は、とても厳しいものがあり、さらにそれに加えて、なかなか共通項が見いだせないほど、被害の実情は多様といえるのではないだろうか。そこがまた、一致しての要求を求めることの、決して小さくはない壁となっているのではないだろうか。このような中で、さまざまな立場にある原告をまとめ、組織している各地の弁護団の取り組みには、本当に頭が下がる思いである。それでも、自らの権利の回復を求めて立ち上がり、ともに手を携えつつ、事故の責任を問い、正義の実現を目指す人たちが、残念ながら、圧倒的多数という状況には、必ずしもなってはいないといえるのではないだろうか。
ここに、実は、この莫大な規模の被害をもたらした原発災害が、多くの人びとに与えた計り知れない影響をみることができるのではないだろうか。同時にそれは、被害の回復と密接にかかわって、現在、切実に求められている課題として浮上しつつある、いわゆる復興支援の問題ともリンクしているように思えるのである。端的にいって、復興支援の課題は、単にハードの問題だけではなく、いうなればケアの問題も含めた課題なのであろう。
そのことは、かなりの数の被害当事者が、この事故とその後にたどった経過から受けた精神的な負荷を考えることによって、明確なものとなるだろう。これが正義をめぐる言説を阻害する要因となっていることは否定できないだろう。こうしたことが、繰り返しになるが、いわゆる復興支援にさいしても、決して見過ごすことのできない、困難として立ち現れているように思える。これらの諸点を考慮に入れること、つまり、権利、人権の回復や、責任の所在を明らかにし、それを通じて正義の実現を図ること、それらを前提に、これに加えてさらに多くの人たちへの精神的なケアをすることが、復興を後押しするための重要なスッテプとなるだろう。このことの持つ意味は、決して小さくはないだろう。
原発災害からの避難者が抱えている、目下の、さまざまな精神的負荷をもたらしている、その要因の多くが、コミュニティを失ったことにともなう、価値のはく奪や喪失の感情に根差しているといえるだろう。自らの拠って立つ、よりどころとすべき根拠を失い、ときには、深刻なまでのアイデンティティの危機、アイデンティティクライシスにまで発展しかねない状況へと追い込まれる、そうした潜在的状況を少なくない被害者は有している。それはまた、その心理的ダメージのゆえに、地に足がつかない、まさに宙吊りとなっているような感覚をもたらしてもいる。そこから、それゆえに、今ある、ありのままの、自らの存在を認めて欲しいという、承認の欲求となって表れているといえるだろう。
こうした、いわば、原発災害の被災者が、当事者として、当然感じるべき多くの思いについて、少なくない調査や研究などによっても、それが裏付けられるような示唆を与えているといえるだろう。それはデータによっても把握が可能であると同時に、当事者と接する機会を持つことのある多くの人たちによる実感も、それを大きく外れることはないのではないだろうか。そのような心理的状況を多くが共有しているといえるだろう。
では、そのような事態に対して、どのようなことが可能なのであろうか。これは、正義への第一歩であると同時に、いわゆる復興、それは自らの足で立つことを当然意味するものとなる必要があると考えるが、こうした取り組みを支えていくためにできることが、果たしてどれだけあるのだろうか。それに応えることは、必ずしも容易なことではないだろう。もしかしたら、ほんのわずかのことしか、実際には、できないのかもしれない。
それでも、こうした試みは、原発災害の今後を考えるうえで、欠かすことのできない視点をもたらすのではないだろうか。その際に、もしかしたら、復興支援員という、広範な地域に分散している、多くの避難者や原発災害によって困難を抱えている人たちを支え、手助け、支援する仕事に従事している方々が、鍵となるのではないだろうか。
確かに、このような役割を担い、ともすれば精神的にも疲労しつつある当事者に向き合うことには、ケアの資質や、場合によってはカウンセリングのスキルなど、かなりの専門性が求められることになるだろう。現状では、そうした期待には、なかなか応じることができないのが、実情であろう。そのような知識、スキルを有している人材を投入することは、かなりハードルが高いことは事実であろうし、またそうした人材そのものが、圧倒的に不足しているというほかはないであろう。しかし、それでも、こうした可能性を追求する必要があることも、決して否定できないのではなかろうか。
これらの課題を一手に引き受けるようなことができる役割を担うことが、広い意味でのソーシャルワークの資質であり、スキルではないかと考えている。だが、広義の、そして介入的なソーシャルワークに求められる、このような必要を満たす潜在的可能性を持つことは、なかなかに厄介なことといえるだろう。総じて、困難を抱えている人にむけての支援をとりおこなう人材の養成に精力が注がれなかった社会において、こうした課題をこなすことははなはだ難しいといえる。だが、それでも、その必要性が減じることはないといえるであろう。そこに復興支援の課題があるということができるだろう。
とりわけ、原発災害によって多大なダメージを受けた多くの人びとが置かれている状況は、とても厳しいものがあり、さらにそれに加えて、なかなか共通項が見いだせないほど、被害の実情は多様といえるのではないだろうか。そこがまた、一致しての要求を求めることの、決して小さくはない壁となっているのではないだろうか。このような中で、さまざまな立場にある原告をまとめ、組織している各地の弁護団の取り組みには、本当に頭が下がる思いである。それでも、自らの権利の回復を求めて立ち上がり、ともに手を携えつつ、事故の責任を問い、正義の実現を目指す人たちが、残念ながら、圧倒的多数という状況には、必ずしもなってはいないといえるのではないだろうか。
ここに、実は、この莫大な規模の被害をもたらした原発災害が、多くの人びとに与えた計り知れない影響をみることができるのではないだろうか。同時にそれは、被害の回復と密接にかかわって、現在、切実に求められている課題として浮上しつつある、いわゆる復興支援の問題ともリンクしているように思えるのである。端的にいって、復興支援の課題は、単にハードの問題だけではなく、いうなればケアの問題も含めた課題なのであろう。
そのことは、かなりの数の被害当事者が、この事故とその後にたどった経過から受けた精神的な負荷を考えることによって、明確なものとなるだろう。これが正義をめぐる言説を阻害する要因となっていることは否定できないだろう。こうしたことが、繰り返しになるが、いわゆる復興支援にさいしても、決して見過ごすことのできない、困難として立ち現れているように思える。これらの諸点を考慮に入れること、つまり、権利、人権の回復や、責任の所在を明らかにし、それを通じて正義の実現を図ること、それらを前提に、これに加えてさらに多くの人たちへの精神的なケアをすることが、復興を後押しするための重要なスッテプとなるだろう。このことの持つ意味は、決して小さくはないだろう。
原発災害からの避難者が抱えている、目下の、さまざまな精神的負荷をもたらしている、その要因の多くが、コミュニティを失ったことにともなう、価値のはく奪や喪失の感情に根差しているといえるだろう。自らの拠って立つ、よりどころとすべき根拠を失い、ときには、深刻なまでのアイデンティティの危機、アイデンティティクライシスにまで発展しかねない状況へと追い込まれる、そうした潜在的状況を少なくない被害者は有している。それはまた、その心理的ダメージのゆえに、地に足がつかない、まさに宙吊りとなっているような感覚をもたらしてもいる。そこから、それゆえに、今ある、ありのままの、自らの存在を認めて欲しいという、承認の欲求となって表れているといえるだろう。
こうした、いわば、原発災害の被災者が、当事者として、当然感じるべき多くの思いについて、少なくない調査や研究などによっても、それが裏付けられるような示唆を与えているといえるだろう。それはデータによっても把握が可能であると同時に、当事者と接する機会を持つことのある多くの人たちによる実感も、それを大きく外れることはないのではないだろうか。そのような心理的状況を多くが共有しているといえるだろう。
では、そのような事態に対して、どのようなことが可能なのであろうか。これは、正義への第一歩であると同時に、いわゆる復興、それは自らの足で立つことを当然意味するものとなる必要があると考えるが、こうした取り組みを支えていくためにできることが、果たしてどれだけあるのだろうか。それに応えることは、必ずしも容易なことではないだろう。もしかしたら、ほんのわずかのことしか、実際には、できないのかもしれない。
それでも、こうした試みは、原発災害の今後を考えるうえで、欠かすことのできない視点をもたらすのではないだろうか。その際に、もしかしたら、復興支援員という、広範な地域に分散している、多くの避難者や原発災害によって困難を抱えている人たちを支え、手助け、支援する仕事に従事している方々が、鍵となるのではないだろうか。
確かに、このような役割を担い、ともすれば精神的にも疲労しつつある当事者に向き合うことには、ケアの資質や、場合によってはカウンセリングのスキルなど、かなりの専門性が求められることになるだろう。現状では、そうした期待には、なかなか応じることができないのが、実情であろう。そのような知識、スキルを有している人材を投入することは、かなりハードルが高いことは事実であろうし、またそうした人材そのものが、圧倒的に不足しているというほかはないであろう。しかし、それでも、こうした可能性を追求する必要があることも、決して否定できないのではなかろうか。
これらの課題を一手に引き受けるようなことができる役割を担うことが、広い意味でのソーシャルワークの資質であり、スキルではないかと考えている。だが、広義の、そして介入的なソーシャルワークに求められる、このような必要を満たす潜在的可能性を持つことは、なかなかに厄介なことといえるだろう。総じて、困難を抱えている人にむけての支援をとりおこなう人材の養成に精力が注がれなかった社会において、こうした課題をこなすことははなはだ難しいといえる。だが、それでも、その必要性が減じることはないといえるであろう。そこに復興支援の課題があるということができるだろう。
北村浩(日本科学者会議)
2014/02/25(火) 11:33 | コラム | 19
問題提起 核兵器も原発もない世界を目指して
問題提起 核兵器も原発もない世界を目指して
核兵器と原発の現状
現在、地球上には、1万6千発を超える核兵器435基の原発が存在している。プーチン・ロシア大統領は、ウクライナ紛争に際して核兵器使用計画があったことを明らかにした。インドとパキスタンとの間での核戦争の勃発や、イスラエルのイランへの核攻撃の可能性も指摘されている。核兵器の使用は、冷戦時代だけではなく、
現在も画策されているのである。のみならず、意図的ではない核兵器使用がありうるのである。
核兵器が使用されれば、どのような非人道的な結末が発生するかについては、広島・長崎の被爆の実相、核実験による被害の現実はもとより、さまざまなシュミレーションによっても予測されている。核兵器使用による壊滅的事態を避けるためには核兵器の廃絶しかないのである。このことは国際社会の中で共有されつつある思潮である。にもかかわらず、核兵器国やわが国を含む核兵器依存国は、核兵器が自国の安全を保障する最終手段であるとの立場をとり続けている。核による威嚇が抑止力となるの
で、自国と国際社会の安定と平和のために必要不可欠であるというのである。
国際法の世界では、核兵器使用は一般的には違法であるが、国家存亡の危機に際しては違法とも合法ともいえない、というのが国際司法裁判所の多数意見である。
そして、非核三原則の遵守、核兵器の廃絶を目指す、米国の核の傘に依存する、核の平和利用を推進する、というのがわが国の核政策である。
大久保賢一(日本反核法律家協会事務局長)
※ 以下、下記 PDF をダウンロードしてご覧ください。
2015/06/09(火) 13:21 | コラム | 23
山木屋原発自死事件の勝訴判決および確定のご報告
山木屋原発自死事件の勝訴判決および確定のご報告
本年 8 月 26 日に福島地方裁判所において言い渡された「山木屋原発自
死事件の勝訴判決および確定」について、自由法曹団の「団通信」で
紹介された記事を紹介します。
※ 以下、下記 PDF をダウンロードしてご覧ください。
死事件の勝訴判決および確定」について、自由法曹団の「団通信」で
紹介された記事を紹介します。
向川 純平(自由法曹団)
※ 以下、下記 PDF をダウンロードしてご覧ください。
2014/10/08(Wed) 13:16 | コラム | 22
問題意識
現在、地球上には、1万7千発を超える核兵器と426基の原発が存在している。私は、この核兵器と原発をなくしたいと考えている。「核兵器と原発は同根であり、人類の天敵です。」という意見に同意するからである。そして、私は、核兵器も原発もなくすことはできると確信している。なぜなら、これらの物は、人間が作ったものであり、人間が使用するものだからである。人間の意思と行動で廃棄することは可能である。政治的意思を形成し、物理的に破壊すればいいのである(言うだけであれば簡単である)。そこで、問題はどのように廃絶するかである。現在、国際的にも国内的にも核兵器と原発に固執する勢力が支配的である。核兵器を禁止しようとする国際的潮流は大きくなっているけれど、核兵器国の抵抗が強く、まだ、明文の核兵器条約は存在しない。
核不拡散条約(NPT)は、非核兵器国の核兵器保有を禁止しているが、核の「平和利用」は加盟国の「奪いえない権利」としている。現行国際法のもとでは、核エネルギーの平和利用は、権利であるとされているのである。また、原子力事故に関する諸条約(通報条約や援助条約)はあるが、本質的危険性は法的規制の対象とはされていない。
究極の暴力と利潤追求の衝動が優越しているのである。これが世界の現実である。核兵器や原発との決別を希求する者は、この支配層の意思を転換し、新たな法的枠組みを形成しなければならないのである。
そして、我が国政府も、核兵器に依存し、核兵器使用を排除していない。また、放射線の人体に対する影響は過小評価している(後で述べる)。加えて、原子力発電を「重要なベースロード電源」と位置付けている。
我が国政府は、兵器としてもエネルギー源としても、核エネルギーに依拠し続けることを国策としているのである。米国の核抑止力への依存と矛盾しない範囲で、非核三原則の遵守をいい、核兵器廃絶を唱えてはいるが、その実態は核兵器依存国なのである。加えて、原発の再稼働を急ぐだけではなく、原発の輸出まで進めているのである。政府は、核兵器を国家安全保障の「切り札」、原発を経済活動の主役にしているといえよう。
この国策の転換をしなければならない。
2
そのための思想と運動が求められている。そこで、ここでは、第一に1963年の「原爆裁判」の判決を、第二にいくつもの勝訴判決を得てきた「原爆症認定集団訴訟」を、第三に今年5月の大飯原発裁判の判決を例にとりながら、現在通有している論理と体制との対抗軸を概観してみるこことする。
なぜ、これらの裁判例を参照するかといえば、「原爆裁判」は原爆投下の違法性を確認し、「原爆症認定手段訴訟」は放射能被害を認定し、「大飯原発判決」は原発再稼働を認めていないからである。そこには、現在の支配的価値と論理、すなわち、国家の暴力と資本の衝動を否定する判断がなされているのである。これらの裁判例に通底する価値と論理を探求してみたい。
※ 以下は、下記リンクよりPDFをダウンロードしていただきたい。
弁護士 大久保賢一
(297KB)